鉄道停車場一覧 昭和12年10月1日現在 - 鉄道史資料保存会

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昭和11年 第1編 雜纂』、『鉄道停車場一覧. 函付き 鉄道関係資料・鉄道停車場一覧・昭和12年10月1日現在・昭和61年発行 鉄道省・鉄道史資料保存会・満鉄朝鮮台湾鉄道 現在 9,800円 ウォッチ. 8km) の貨物営業を廃止 1971年 (昭和46年) 12月26日 全線 (3. 愛電は岡崎線(豊橋線)の延伸工事と並行して、既開業区間・路線についても複線化および軌道強化による軸重上限の引き上げ、さらに従来直流600 Vであった架線電圧の直流1,500 Vへの昇圧を順次実施した。 岡崎線については、1925年(大正14年)6月に神宮前 - 東岡崎間の架線電圧を1,500 Vへ昇圧し、以降の開通区間については当初より架線電圧を1,500 V仕様とした。複線化工事は、1924年(大正13年)4月に有松裏 - 矢作橋間、同年10月には有松線として開業した区間に相当する鳴海 - 有松裏間が順次完成した。この段階で、鳴海以東では矢作橋 - 東岡崎間のみ単線で残されたが、同区間についても1926年(大正15年)4月の東岡崎 - 小坂井間開通と同日に複線化工事が完成し、鳴海 - 小坂井間は全線複線区間となった。 その後、神宮前 - 鳴海間の単線区間についても段階的に複線化工事および急曲線区間の改良工事を実施した。1927年(昭和2年)12月に鳴海 - 東笠寺間、1930年(昭和5年)4月に呼続 - 笠寺(現・本笠寺)、同年7月に堀田 - 呼続間の工事がそれぞれ完成し、豊橋線は神宮前 - 堀田間・笠寺 鉄道停車場一覧 昭和12年10月1日現在 - 鉄道史資料保存会 - 東笠寺間の2区間を除いて全線複線化された。 複線区間延伸および急曲線区間改良後の1930年(昭和5年)9月20日に実施されたダイヤ改正においては、神宮前 - 吉田間の特急の所要時分は3分短縮されて60分となり、急行も同区間の所要時分が2分短縮されて70分となった。さらに特急と同一の停車駅設定ながら、特急よりも3分速い57分(表定速度65. 年7-10月号). 344。isbn。. 鉄道史資料保存会 テツドウシ. 鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(1986年覆刻)、p.

433。isbn。 湯口徹『内燃動車発達史 上巻』ネコ・パブリッシング、年、316-317頁. 347,348。ISBN。 藤枝市郷土博物館『軽便鉄道』藤枝市郷土博物館〈市制施行40周年記念展〉、静岡県、1994年、pp. 愛電は既存路線の延伸と同時に、前述した東陽町線のほか、熱田より有松・知立方面へ至る「有松線」・尾張横須賀より分岐して知多郡半田町へ至る「半田線」・常滑より知多郡内海町へ至る「内海線」の計4路線の敷設免許を申請し、内海線は1912年(大正元年)8月に、半田線は同年12月に、東陽町線および有松線は翌1913年(大正2年)2月にそれぞれ免許された。同時にこれら新規路線の建設費用に充当するため、1913年(大正2年)5月に新株を発行して資本金を200万円に増資した。 しかし、同時期に顕著となりつつあった経済不況の影響によって新株の未払込金徴収は遅滞し、そのため前述した神宮前 - 秋葉町間の建設費用を借入金にて賄わざるを得ない状況に陥った。さらに神宮前 - 常滑間全線開通後の路線収益は建設に要した費用に対して到底見合うものではなく、計画路線を全て着工することは資金的に困難となった。そのため、名古屋市内への乗り入れにあたって名古屋電気鉄道など他事業者との調整に時間を要することが予想された東陽町線については一旦建設計画を休止し、地元住民より要望の高かった有松線・半田線の着工を優先することとした。 両路線の建設資金調達に尽力した矢先、名古屋市の旭遊廓の移転問題に絡む疑獄事件が発生し、兼松ら3名の愛電取締役が関与していたことが発覚、兼松と常務取締役の安東敏之の2名が詐欺罪で起訴される事態が生じた。これにより、不況に加えて会社に対する不信感から株価が急落するなど、愛電を取り巻く環境はさらに厳しさを増していった。1913年(大正2年)5月から同年11月にかけて、兼松を始めとする役員の大半が辞任したことを受け、同年12月に監査役であった藍川のほか、伊藤由太郎人物 1・井深基義の計3名が取締役に就任、経営の建て直しを図った。 さらに翌1914年(大正3年)には、かねてから健康状態悪化により出社もままならない状態であった社長の岩田作兵衛が辞意を表明した。藍川らは翻意に努めたものの岩田の辞意は固く、協議の結果、後任として当時名古屋電灯の常務取締役であった福澤桃介を招聘することで合意した。福澤との交渉には名古屋電灯の監査役であった当時から親交の深かった藍川があたり、福澤も藍川の申し出を承諾して、1914年(大正3年)8月16日に開催された臨時の株主総会において岩田の子息である岩田新之助と. 1927年(昭和2年)4月に名古屋市電東郊線が堀田まで開通した。これを受けて、愛電は翌1928年(昭和4年)4月に豊橋線沿線から市電東郊線との連絡運輸による名古屋市東部への最短ルートの中継駅として堀田駅を開業、当時の最優等列車種別であった特急を含む全列車を停車させた。 さらに愛電は自社路線によって名古屋市中心部へ直接乗り入れることを計画、1927年(昭和2年)2月に名古屋市南区熱田から同南区金山に至る路線の敷設免許が交付され、さらに金山から中区西菅原町(現在の丸の内)に至る地下鉄道の敷設免許を申請した。この愛電による申請ルートは、旧・名古屋鉄道(後の名岐鉄道)が「名古屋地下鉄道」名義で1926年(大正15年)10月に免許申請した名古屋 - 熱田間の地下鉄道のルートと一部競合し、異なる事業者による2路線が競願する形となった。 ただしこれらの申請は、愛電および旧・名古屋鉄道(名古屋地下鉄道)とも事業内容に対して資本面が脆弱であったことから却下される可能性が高いと見られていた。また、愛電と旧・名古屋鉄道という名古屋地区を代表する二大郊外路線を相互連絡し、名古屋市東西方面を直通する路線とすることが利用者の利便性向上に繋がり、ひいては両社にとって将来の発展性の観点から極めて得策であるとの結論から、愛電と旧・名古屋鉄道の両社は共同出資で名古屋地下鉄道(資本金1500万円)を設立し、同社によって地下鉄道を建設する計画を策定した。 名古屋地下鉄道の路線は名古屋 - 熱田間 7. 353。isbn。. 会社設立を終えたことから、愛知電気鉄道(以下「愛電」と記す)は各種資材の手配を進め、熱田 - 常滑間を4つの工区に分割して建設を開始した。当初電力については自社にて発電所を建設する構想であったが、後に名古屋電灯より電力供給を受ける形に計画を変更した。 1911年(明治44年)に、4つの工区のうち第一工区に相当する熱田 - 名和村間について、構想段階における呼続・大高経由の大回り経路から常滑街道沿いの短絡経路へ変更することとし、同年5月に変更願を提出し6月に認可された。この経路変更に伴って新たに用地買収の必要が生じ、第一工区のうち地権者との交渉が難航した熱田 - 伝馬町間については、同様に用地買収が難航した第四工区に相当する大野町 - 常滑間とともに着工を後回しとし、伝馬町 - 大野町間の建設を優先して施工した。 伝馬町 - 大野町間の建設は順調に進み、1912年(明治45年)2月上旬に監督官庁による審査を通過し、同年2月18日に開通した。暫定的に起点駅となった伝馬町は、300 mほどの徒歩連絡によって名古屋電気鉄道市内線(後の名古屋市電)の熱田伝馬町停留場と接続しており、名古屋市内中心部への連絡運輸が行われた。開通後2月28日までの10日間は運賃を半額としたこともあって利用客が殺到し、開業初日のみで乗客2,600人が利用し、運賃収入は210円にのぼった。同年3月3日には県知事・地元実業家・大株主など地元政財界の要人を中心に500名を招待して開業祝賀会を開催し、花火の打ち上げや奉納相撲が行われるなど盛況を博した。 伝馬町 - 大野町間開業後の営業成績は好調で、春季には観光目的の団体客の需要などもあり、当初導入された8両の電車のみでは需要をまかない切れなくなったことから、愛電は4両の電車(付随車)を追加導入して従来単行(1両)運転を基本とした列車を一部2両編成とし、増加する輸送需要に対応した。 既開業区間の業績好調を受けて、愛電は熱田より名古屋市中心部に近い東陽町(現在の中区東陽町)に至る「東陽町線」をはじめとする4路線の敷設を計画、1912年(明治45年)より順次敷設免許を申請した。次いで、未開業区間の熱田 - 伝馬町間および大野町 - 常滑間の着工準備に取り掛かった。前者の区間については熱田駅にて行う予定であった国鉄との貨物列車の連帯運輸や、前述した東陽町線建. 4 kmを結ぶ豊橋線の建設に着手した。. その後愛電は、軽便鉄道補助法に定められた「収益金が建設費の5 %に満たない場合は補助金を交付する」に基いて政府に補助金の給付を申請し、鉄道院による審査を経て1914年(大正3年)下半期より補助金の交付が認められた。 これにより下落する一方であった株価が急騰したことを受け、愛電は当時約5,000株ほど存在した未払込株についてこの機会に払込を完了させるべく尽力した。最終的に3,356株の失権株が発生したため、これらは有松線建設を要望した鳴海町・有松町在住の有力者に引き受けを要請し受諾され、1915年(大正4年)9月に払込が完了した。さらに発行済株式のうち3,000株について買入消却することとし、同年12月に10万円の借入金を資金として50円払込株を1株平均35円で買い入れ、15万円の減資を実施した。 これらに加えて役員報酬全廃や社内余剰品の売却など経費削減に努め経営再建に尽力した結果、第一次世界大戦勃発による景気の急速な回復の影響もあり、愛電の経営状態は危機を脱した。また同時期には名古屋 - 豊橋間を結ぶ高速電気鉄道の建設を画策する尾三電気鉄道の活動が活発となったため、同社への対抗の必要性から愛電は地元有力者であった有松絞り業者の竹田嘉兵衛を取締役に迎えるとともに、長らく棚上げとなっていた有松線の着工を急ぐこととした。 当初、有松線は小型の4輪単車が運行可能な程度の簡易な規格とする計画であったが、将来的な岡崎・豊橋方面への路線延長を念頭に、より大型の2軸ボギー車が運行可能な規格に設計を改め、1915年(大正4年)11月に着工された。有松線は元より地元住民から敷設を強く要望されていた路線であったため、用地買収は順調に進み、1917年(大正6年)3月に神宮前 - 笠寺(現・本笠寺)間が、同年5月には笠寺 - 有松裏(現・有松)間が開通し、神宮前 - 有松裏間9.

274。ISBN。 益井茂夫「東野鉄道」『鉄道ピクトリアル』1960年12月号臨時増刊:私鉄車両めぐり1、1960年、 pp. 折からの好景気によって愛電の鉄道路線収入は増加の一途を辿ったが、元来鉄道事業は公益性が高く利潤を追い求める事業ではないことから、愛電においては経営の多角化によって一層の増収を図る経営方針が定められた。折りしも名古屋市内を中心に他社の乗合バス事業が好成績を上げており、また当時大都市近郊の大手私鉄事業者の一部が手がけた土地販売・住宅開発や遊園地の運営などについても、鉄道事業者が取り組むべき指針を示すものと位置付けられた。 そのような情勢下で開催された1918年(大正7年)12月の定期株主総会においては、会社定款の営業目的に自動車事業を追加した。さらに翌1919年(大正8年)12月の定期株主総会において、定款に土地住宅開発事業を追加するとともに、常滑線の複線化・有松線の延伸・築港線の建設など鉄道関連事業資金および土地住宅経営資金を調達する目的で、資本金を185万円から500万円に増資することが決議された。増資にあたっては、名古屋電灯が新規発行株のうち20,000株を引き受けて愛電の筆頭株主となり、同社から副支配人の青木義雄人物 2が送り込まれ、愛電の常務取締役に就任した。 常滑線は開通以来年々輸送量が増加して線路容量が逼迫し、従来単線であった路線の複線化など設備の改良の必要性に迫られていた。しかし、1919年(大正8年)10月には新舞子付近において列車同士の正面衝突事故が発生し注釈 1、事故原因が保安設備の不備に起因するものであったことから、保安設備改良を先行することとした。改良工事に際しては、自動閉塞方式による二位色灯式信号機を常滑線全線に導入した。 次いで複線化事業に着手したが、常滑線は建設当初より複線分の用地を確保していたため工事は順調に進み、1920年(大正9年)10月の古見 - 大野町間の複線化完成を皮切りに順次工事が進捗した。複線化工事に際しては軌条を従来の25 - 30 kg軌条から37 kg軌条に交換し、重軌条化を推進した。また複線化工事の進捗と並行して、輸送力増強のため1921年(大正10年)から翌1922年(大正11年)にかけて8両の電車を導入したが、当時の同業他社における郊外路線用電車は2軸ボギー構造が主流となっていたことから、これら8両の電車は愛電初の2軸ボギー車として設計・製造された。 一方、名古屋港東岸の埋立地開発を目的として敷設. 2 km、全区間を道路直下の地下に建設し、中途に伏見町・栄町・上前津・別院前・沢上の5駅を設置することとした。また旧・名古屋鉄道は起点駅を従来の柳橋から名古屋へ移転し、枇杷島橋付近から地下新線へ切り替えること、愛電は熱田 - 金山間の敷設免許申請を取り下げることなどが両社間で取り決められた。名古屋地下鉄道の発起人総代には愛電社長の藍川、旧・名古屋鉄道の代表取締役社長職にあった富田重助人物 3の両名が就き、その他両社の重役が全員発起人として参加した。 同計画は道路を管轄する名古屋市当局による意見提起を経て、1929年(昭和4年)1月21日に正式に関係省庁へ提出された。しかし、同時期に発生した昭和恐慌に端を発する経済情勢悪化によって資金調達が難航し、実現には至らなかった注釈 10。なお、計画申請は1. 8km) 廃止 現在、廃線跡は道路や住宅に転用されたが、佐々駅以西の松浦線併走区間や 佐々川 を渡っていた橋の橋台が残っている。. 383。ISBN。. 【鉄道資料】木製省電図面集 鉄道資料保存会 1993年 c5 h5359商品説明注意事項発送詳細支払方法【鉄道資料】木製省電図面集. ^ a b 鉄道省『昭和12年10月1日現在 鐵道停車場一覧』鉄道省、東京、1932年、pp.

436。 ISBN。 宮脇俊三 『鉄道廃線跡を歩く』1、日本交通公社出版事業局〈JTBキャンブックス〉、1995年、pp. 6 kmおよび西尾 - 港前間4. 明治10 年1 月11 日 工部省に鉄道局設置(鉄道寮廃止) 明治10 年2 月5 日 大阪・京都間全通、京都・神戸間鉄道開業式.

昭和12年10月1日現在. 8 kmが開通し、当初は架線電圧を愛電豊橋線と共通の直流1,500 Vとした。その後段階的に延伸工事が実施され、1928年(昭和3年)10月の碧電西尾口(仮) - 西尾間3. 133, 134。ISBN。. 鉄道一般(鉄道 趣味、スポーツ、実用)の新品・未使用品・中古品なら、ヤフオク! 鉄道省『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、巻頭地図、144, 432, 433。isbn。.

1937年(昭和12年)10月27日(鉄道人身障害事故) 要出典 東海道本線東神奈川駅付近で、軍用列車歓送の人波に押し出された国防婦人会の女性ら25名が列車にひかれ死亡。 鹿児島線列車火災事故 1937年(昭和12年)12月27日(列車火災事故). 7 km/h)で神宮前 - 吉田間を結ぶ超特急「あさひ」が新設された。超特急「あさひ」には当時の愛電における最新型車両であったデハ3300形が充当され、運行時には前頭部に朝日(旭日)と波のイラストが入った長方形の大型ヘッドマークが掲出された。 常滑線については、前述の通り1920年(大正9年)10月より段階的に複線化を推し進めてきたが、1925年(大正14年)6月の柴田 - 名和村(現・名和)間の複線化工事完成をもって、両端区間である神宮前 - 伝馬町間および大野町 - 常滑間を除く全区間が複線化された。架線電圧の1,500 V昇圧は1929年(昭和4年)1月に実施され、愛電の幹線路線は架線電圧1,500 V仕様で統一. . 394。 ISBN。 和久田康雄 「昭和52年5月1日現在における補遺」『私鉄車両めぐり特輯』1、鉄道ピクトリアル編集部、鉄道図書刊行会. 鉄道 出版社、著者、刊行年 ★鉄道史資料保存会 コンディション ★函スレ少 比較的状態良好な新品未読品ですが、初期キズや天地小口のわずかな汚れなどの可能性はございます。 サイズ ★A4 送料 ★ゆうパック 80サイズ ※ゆうパック送料は下記の料金表をご覧ください. See full list on wpedia.

311。isbn。 湯口徹『内燃動車発達史(上巻)』ネコ・パブリッシング、年12月31日 発行、p129-131。 isbn。. 鉄道ファン No. 353。isbn。 鳳来町教育委員会『鳳来町誌』田口鉄道編、鳳来町教育委員会、1996年、53-61頁。.

さらに愛電は、計画が頓挫した東海道電気鉄道より継承した地方鉄道法に基づく路線免許を利用して、既存の有松線を延長する形で1921年(大正10年)5月より神宮前 - 吉田(現・豊橋)間62. 259。isbn。. もとは、臼ノ浦港から積み出す石炭の輸送のため佐世保鉄道が開業した軌間762mmの軽便鉄道で、1931年に開業した。1936年には買収・国有化され、鉄道省(国有鉄道)松浦線の名無し支線となった。 その後、1944年に松浦線の改軌・線路付替えが行われたことに伴い、松浦線本線との分岐を四ツ井樋駅から佐々駅に変更。1945年、松浦線の改軌工事完成に伴って、松浦線から分離し、臼ノ浦線となったが、沿線の炭鉱が閉山すると衰退し、レールバスのキハ02が細々と走る程度になってしまった。 1968年には、鉄道としての使命を終えたものとして、同じく松浦線の支線であった世知原線とともに赤字83線にリストアップされ、1971年に廃止された。. 明治14 年12 月 日本鉄道会社設立(上野・青森間の鉄道敷設を目的とする我が国最初の私鉄鉄道、 明治16 年7 月28 日に上野・熊谷開通. 4 kmの開通をもって全線開通した。終点の西尾では後述する愛電西尾線(旧西尾鉄道線)と接続し、西尾線吉良吉田まで直通運転を行うため、全線の架線電圧を西尾線と共通の直流600 Vに降圧した。 次いで愛電は、幡豆郡西尾町を拠点として吉良吉田・岡崎方面へ路線網を有した西尾鉄道を1926年(大正15年)12月1日付で吸収合併した。 西尾鉄道は1910年(明治43年)2月に西三軌道として設立され、1916年(大正5年)2月までに岡崎新 - 西尾 - 吉良吉田間22. 【鉄道資料】日本鉄道史 上中下3巻セット 日本鉄道省 ※難あり c3 h5542商品説明注意事項発送詳細支払方法【鉄道資料】日本鉄道史 上中下3巻セット 日本鉄道省 ※難あり c3 h5542※古い資料の為、傷み等ございます。. 265-266。ISBN。 小熊米雄「留萠鉄道」『鉄道ピクトリアル』通巻160号、鉄道図書刊行会、1964年7月臨時増刊、 9-17頁。.

愛電が豊橋線計画を推進した1922年(大正11年)当時、幡豆郡西尾町から碧海郡明治村を経由し、豊橋線の経路の中途に位置する碧海郡矢作町までを結び、愛電の宇頭駅において接続する鉄道路線を敷設する計画が地元より持ち上がった。愛電は地元有力者と折衝の末、資本金の5割を出資して資本参加することを決定、その後起点を矢作町から碧海郡今村町(現在の安城市)の今村駅(現・新安城駅)へ変更し、1925年(大正14年)に碧海電気鉄道が設立された。資本金は100万円、社長は愛電社長の藍川が兼務し、本社は愛電本社内に設置された。 1926年(大正15年)7月に今村 - 米津間11. 383。isbn。. 愛知県の南西部に位置する知多半島は、東岸地域については鉄道院によって敷設された武豊線によって名古屋市と結ばれていたものの、古代より常滑焼など窯業を中心として発達した商工地帯であった西岸地域については鉄道路線が存在せず、明治年間末期においても名古屋方面への客貨輸送は1日数便の馬車ないし船便のみに頼る状況であった。 そのため、半島西岸地域の有力者より半島西岸から名古屋方面に至る鉄道路線敷設計画が立案され、地元の大手電力会社であった名古屋電灯の顧問弁護士で、同社の取締役も務めた藍川清成を中心とする計7名の発起人により、名古屋市近郊の愛知郡熱田町より呼続・鳴海・大高・横須賀を経て半島西岸沿いに知多郡常滑町へ至る、私設鉄道法による複線の電気鉄道「知多電気鉄道」が1906年(明治39年)12月に免許申請された。事業計画内容は発起人のうち、かつて名古屋電気鉄道の経営に携わった経歴を持つ小山朝佐・林友二らによって作成されたが、この免許申請は却下され、実現しなかった。 その後計画が進展しなかったことから、藍川は当時の愛知県知事であった深野一三や名古屋電力の常務取締役であった兼松煕ら地元政財界の要人に援助を要請し、兼松よりかつて甲武鉄道にて取締役を務めた岩田作兵衛を紹介された。岩田は雨宮敬次郎らに代表されるいわゆる「甲州財閥」の1人で、雨宮とともに甲武鉄道のほか青梅鉄道・川越鉄道(後の旧・西武鉄道)・京浜電気鉄道など数多くの私有鉄道の敷設運営に携わった実業家であった。 出生地が岐阜県稲葉郡下羽栗村であったという地縁から藍川の要請を受諾した岩田は、知多電気鉄道計画は建設費を削減することによって十分採算が取れると判断し、計画を軌道条例による単線の電気軌道に変更するとともに、元関西鉄道社長の田中新七らを新たに発起人に加え、岩田自身が発起人総代となり1909年(明治42年)9月に特許を出願した。同年10月には発起人総会を開催、社名を「知多電車軌道」(資本金100万円)とし、創立委員長には岩田が、創立委員には田中・兼松ら3名がそれぞれ就任した。 創業に当たっての事務手続きは進捗したものの、特許申請については当時行政側において私有鉄道の準拠法として軌道条例に代わって軽便鉄道法の施行が計画されていたことによって停滞したため、同法が施行された1910年(明治43年)8月3日付で知多電車軌道の軌道.

133, 134。isbn。 今尾恵介(監修) 『日本鉄道旅行地図帳』12 九州・沖縄、新潮社、 年 。isbn。. 再開一日目の年10月3日は、栃木県北部の東武鉄道矢板(やいた)線跡を訪ねる。矢板線というのは、現 東武鬼怒川線の新高徳(しんたかとく)と東北本線の矢板の間を結んでいた延長23. 441。ISBN。 帝国鉄道協会(編纂)『帝国鉄道年鑑』帝国鉄道協会、東京市麹町区有楽町、1928年5月、昭和3年版、pp. . 鉄道省 『昭和12年10月1日現在鉄道停車場一覧』 鉄道省(覆刻:鉄道史資料保存会)、東京(覆刻:大阪)、1937年(覆刻:1986年)、pp. See full list on weblio. 1971年(昭和46年)4月1日 全線 (3. 西三河地方において多くの路線網を有し、愛電と競争関係にあった三河鉄道は、1927年(昭和2年)8月の新三河鉄道の設立に際して資本参加し、同社の保有した西加茂郡挙母町(現・豊田市)から名古屋市の東大曽根町(千種)に至る鉄道路線の敷設免許を事実上手中に収めた。また同年4月には岡崎市内において路線網を有した岡崎電気軌道を吸収合併し、岡崎 - 挙母 - 千種間を結び西三河地方と名古屋を直結する路線の敷設を構想した注釈 11。 しかし、愛電が西尾鉄道の吸収合併および碧海電気鉄道の設立により幡豆地区に路線網を展開したことより、同地区においても事実上愛電と競争関係を持つこととなった三河鉄道の保有路線の営業成績は大きく影響を受けた。さらに同時期の経済不況の影響も加わって新三河鉄道の建設計画は凍結され、三河鉄道は業績好転が困難な状況に陥りつつあった。 この情勢下、愛電と三河鉄道は従来の対立関係を改めて協調関係を築くこととし、1928年(昭和3年)6月に愛電豊橋線の新知立 - 牛田間に分岐点(後の知立信号所)を新設、分岐点より三河鉄道線の知立駅に至る連絡線を開通させて貨物列車の相互直通運転を開始した。その後、愛電豊橋線の一ツ木から三河鉄道線の重原に至る連絡線など複数の連絡線の建設が計画されたが、同時期には協調関係からさらに踏み込んで両社の合併案が浮上、管轄省庁である鉄道省からも合併を推奨された。 合併には愛電・三河鉄道双方とも積極的であり、愛電の大株主であった東邦電力(名古屋電灯の後身)の神谷啓三の斡旋を受け、1930年(昭和5年)4月22日に開催された愛電の臨時株主総会において合併が可決され、同月両社間にて合併に関する仮契約を締結した。この合併申請は1930年(昭和5年)7月に認可されたが、合併に関する事務手続き中途にて発覚した三河鉄道の保有資産に関する解釈を巡って両社の関係は急速に悪化し、合併手続きは中断された。その後、同年9月に愛電側より合併拒否を通告、翌1931年(昭和6年)6月24日に開催された愛電の定期株主総会において合併解消が可決されたことにより、合併案は消滅した。 交渉決裂後の両社の対立は以前にも増して先鋭化したと伝わるが、後年の交通統合によって三河鉄道は1941年(昭和16年)6月に愛電の後身である名古屋鉄道へ吸収合併された。.

鉄道 出版社、著者、刊行年 ★鉄道史資料保存会編 コンディション ★表紙スレ少 比較的状態良好な新品未読品ですが、初期キズや天地小口のわずかな汚れなどの可能性はございます。 サイズ ★A4 送料 ★レターパック 370円 ゆうパック 60サイズ ※ゆうパック送料は下記の料金表をご覧.

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